今なぜ、鳥居龍蔵か        赤澤 威

鳥居龍蔵資料群

鳥居龍蔵は膨大な著作を遺しました。ただし鳥居の学問的遺産はそればかりではありません。むしろ永遠の命脈を保ち続けるものは他にあります。それは鳥居が終生挑戦し続けたフィールド調査の足跡をもっとも具体的に物語る数々の標本資料群です。それはひとつに、鳥居の業績を評価し、鳥居がめざした研究を継承し、新たな展開を志向する上で欠かせないものですが、同時に、諸民族の文化が次々と変貌あるいは消滅しつつある現実に直面する私たちにとっては学術的価値を超える至宝です。その中の一つ乾板写真を取り上げその価値を考えてみます。

鳥居は、採集した資料について終生一貫した公正な姿勢を貫いたことで知られています。すなわち、資料は自らの研究が終了したのちは現地に返還するか、現地に受け皿がなければ研究機関に託しました。結果として鳥居資料は、調査地あるいは調査時に籍を置いていた内外の研究機関に分蔵されることになりました。では資料のその後の歩みはどうなったか。

幸いにして散逸は免れましたが、もう一つの願いは成就されることなく今日に至っています。すなわち、各地に集積された資料が後続の研究や教育の世界で引き続き活かされることを期待した鳥居でしたが、それに向けての組織的な資料調査はほとんど実施されず、むしろ次第に忘れ去られてしまったのであります。鳥居が長く籍を置いたこともあって最大のコレクションを擁した東京大学においても事態は同様でした。

1893明治26年徳島から上京後東京大学人類学教室の標本整理係時代、鳥居にとって最初の海外調査となった遼東半島(1895明治28年)、翌年の台湾・沖縄、1898明治31年東大助手となり、1924大正13年東大助教授として辞職するまでの26年間に行った千島・台湾・南西中国・沖縄・満州・蒙古・朝鮮・東シベリア・北樺太調査、日本各地のフィールド調査にさいして採集した考古資料、民族資料(現在国立民族学博物館)も鳥居が東大を離れて以降組織的な調査は行われませんでした。そのなかに、1896明治29年の台湾調査以来かならず携行した写真機で撮影された乾板写真が含まれていました。

鳥居写真乾板資料の解読

東京大学総合研究資料館(現総合研究博物館)の人類先史部門の標本室の片隅で、当館の増改築の度に右往左往している十数箱の重たい段ボール箱がありました。中身は写真乾板でした。その多くは、東京大学理学部人類学教室あるいは日本人類学会が主宰した遺跡調査の記録であることは被写体から容易に判明しましたが、その中に、趣の違う不思議な乾板写真が多量に混じっていました。

それには、実にさまざまな容貌、風貌を示す人物が写し込まれていました。その由来が、民族学の飯島茂さん(当時東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所教授)のおかげで分かりました。鳥居の遺した写真乾板であることが分かったのです。その乾板がたくさんの人を引きつけました。

聖心女子大学文学部(社会人類学)の末成道男さん、東京大学文学部(言語学)の土田滋さん、同教養学部(文化人類学)の伊藤亜人さん、昭和音楽大学文学部(文化人類学・民族音楽学)の姫野翠さん、千葉大学文学部(言語学)の中川裕さん、横浜国立大学教育学部(社会人類学)の笠原政治さん、立教大学教育部(中国民俗学)の谷野典之さん、法政大学教養部(中国民俗学)の曽士才さんが相次いで現れました。いずれも鳥居がかつて歩いた地域をフィールドとする文化人類学者、社会人類学者、民俗学者、言語学者でした。

さらに写真技術の専門家として東京大学文学部(考古学)の鈴木昭夫さん、データベースの専門家として国立教育研究所(情報工学)の及川昭文さんが現れました。そして始まりました。それが科学研究費補助金による「鳥居龍蔵博士撮影の日本周辺諸民族写真・乾板の(緊急を要する)再生・保存・照合」プロジェクトであります。プロジェクトは総勢13名の大組織となりました。

プロジェクトの目的は乾板に刻み込まれている被写体の解読でありました。撮影地から始まり、登場する民族を同定し、写し込まれている生活振り、風俗習慣、衣装、住居集落、儀礼、舞踏、芸能、身体装飾などの解読です。鳥居は一人でしたが、その後の研究の深化とも相まって進んだ学問の細分化によって、その解読は、それぞれの地域のしかもさまざまな分野の専門家の結集と協同が欠かせなかったのであります。それでも、撮影記録が伴っていなかったために解読できない資料が続出しました。その状況にはプロジェクトメンバーは手を焼き、プリントした写真を携えて現地に飛んだものです。変貌著しいとはいっても現地人なら解読できるかもしれないとの期待をもって。

1988昭和63年から始まった解読作業の成果が、1990平成2年、前出した『東京大学総合研究博物館所蔵鳥居龍蔵博士撮影写真資料カタログ』全4部作として刊行されました。またたくまに絶版となりました。さらに同年、東大総合研究資料館で特別展「乾板に刻まれた世界—鳥居龍蔵の見たアジア」が開催されました。本展示カタログ『乾板に刻まれた世界—鳥居龍蔵の見たアジア』もすぐに絶版。来館者のアンケートのなかに、「国民的英雄と謳われた鳥居博士の世界に再会し感激した」といった内容の年配者の感想文が見つかった。

また鳥居龍次郎氏が展覧会オープニングに来館されたのも懐かしい想い出です。氏にとっても、父上が辞して以来疎遠であった東京大学との久方ぶりの再会でした。写真技師として父上の調査に同行し、自ら撮影した写真の数々がみごとに再生復活され、展覧される会場にいつまでもたたずむ氏影が昨日のように想い出されます

さて、鳥居乾板復元再生事業は実は終わっていません。鳥居乾板と目されたものはほぼ1500枚でしたが、撮影地など基本属性の抽出に成功し、上記の写真カタログに集録できたものは800枚にとどまり、しかもその基本属性はもっぱらプロジェクトメンバーの解読結果に基づいています。撮影記録を伴っていなかったために、記録写真の最大の魅力である撮影者、鳥居の被写体に向けた目線や意図については知るすべがなかったわけです。当然、プロジェクトの進行中、しばしば話題になったのが記録の所在でした。これは他の考古資料、民族資料の整理作業においても同様の問題でした。この我々の悩みの解決に向けて一つの光明が見えたのであります。

鳥居龍蔵新資料

2000平成12年、徳島県立鳥居記念博物館で鳥居の調査研究に関する膨大な未公表・未公開資料群が発見されました。発見資料は、大別して、(1)未刊原稿・フィールドノート・日記・メモ類・スケッチ・図版類・各種書簡類に分類される自筆資料、(2)拓本・写真類・絵葉書・地図類・軸物・請求書・領収書・任命書・賞状・新聞切り抜き等に分類される視聴覚資料、(3)漢書・和書・洋書に分類される書籍、および(4)考古民族標本でした。なかでも、自筆資料群と聴視覚資料群は、まさに、鳥居の足跡を生々しく物語る記録であり、これまで鳥居資料群の復活研究において最大の障碍のひとつを一気に払拭するという期待をもたせるものでした。

前述しましたが、鳥居の遺した標本資料群は、彼の学問的遺産として永遠の命脈を保ち燦然と輝き続けるものだと叫んではみても、その再生復活には、鳥居の目線・意図に即して解読することが不可欠です。それが、発見された自筆資料・聴視覚資料群と鳥居が遺した膨大な標本資料群とを結びつけることによって可能になります。

鳥居学再構築の意義

学問が急速に発展する今日において、われわれは、ともすれば実用的な科学や技術の進歩に目を奪われ、それを追い求めて日々の生活を送りがちです。しかしながら、われわれが先人から現代まで学問を発展させてきたのは、生活の利便さを追求するためだけではなかったはずです。大きな目標のひとつは、われわれ自身がどのような存在として歩んできたのか、それをさまざまな分野で論証することにあります。それに果敢に挑戦し続けたのが、まさに鳥居でした。

鳥居は、日本人をアジアの広域に住み着いた数々の民族の一つとして客観的に位置づけること、その実証化をめざし、広大な地域を民族学・考古学・人類学にまたがるフィールド調査を明治、大正、昭和とほぼ半世紀にわたり自ら敢行したのであります。その姿勢こそ、技術革新を背景にして進むグローバル化とよばれる社会状況に目を奪われ、ともすれば民族や文化の多様さを見失いがちなわれわれが、今もっとも学ぶべきところです。自らを知るために外の世界に向けた鳥居の目、その目線が彼の遺した膨大な資料群に刻み込まれているということです。だからこそ、その鳥居の世界を具体的に再生復活することに現代的意義があるわけです。